サミュエル・エトー

最終更新 2011/12/17
Samuel Eto'o リーダーシップに優れ、意気に感じる男ゆえに誤解されることも多いプロフットボール選手。 位置FW 国籍カメルーン 身長180cm

【エトーの略歴】

1981年
3月10日、カメルーン生まれ
1999-00
マジョルカ移籍 このシーズンから5シーズン在籍
2003-04
アフリカサッカー連盟(CAF)に所属する代表監督が投票する2003年アフリカ最優秀選手に選出される
シーズンオフ、アトレティコ・マドリーに移籍濃厚だったがFCバルセロナへ移籍。背番号9
2004-05
25得点 残り2試合で5得点を挙げたフォルランに逆転され得点王を逃す
2006年W杯予選、カメルーンは敗退
6月のFCBarcelona on tour Japan2005には帯同しなかったが、7月のプレシーズンマッチでは来日
2009-10シーズンまで契約延長
2005-06
11月30日、FIFAMVP最終候補3人にはいる
1月21日〜カメルーン代表としてアフリカネーションズカップに出場
2月16日、3年連続でアフリカ最優秀選手に選出される。3年連続は1991年-1993年アベディ・ペレ(ガーナ)以来2人目
5月16日、バレンシアのダビド・ビジャがエトーに並ぶ25得点をあげて全日程終了。 5月17日、CL決勝で同点ゴール
5月20日、最終節アスレチック・ビルバオ戦で1得点し単独得点王。W杯出場者はこの試合に出場できないが、エトーはカメルーンが予選敗退でW杯に出場しないため、この試合に出場できた
2006-07
CL2節で右足を負傷
復帰後、ライカールト監督とロナウジーニョを批判したとしてアンリと入れ替えで放出と報道される。カンテラには7人のカメルーン人選手が在籍しており、移籍はないと推測する
2007-08
8月7日、親善試合マリノス0−1バルセロナ(横浜)で来日。決勝点となるジオバンニ・ドスサントスのゴールをアシストする絶妙の縦パスを出した
8月22日、親善試合のために8月だけで2度めの来日。日本2−0カメルーン戦(大分)ユニフォームナンバー9
8月29日、ジョアン・ガンペール杯で全治3ヶ月の負傷
10月17日、スペイン市民権獲得。カメルーン、スペインの二重国籍となる。スペインでは市民権獲得資格の国内居住年数を、アフリカ国籍者には10年以上としている。→リーガのルール
この時点で非EU枠を使うのはヤヤだけになった
11月25日、2010年W杯大会ポスターの図柄にエトーの顔が使われた
これによって、アフリカ市場をにらみ、向こう3シーズンFCバルセロナがエトーを放出する可能性はまずなくなった
2月12日、カメルーン代表で出場したコパアフリカ決勝戦、0−1でエジプトに敗れ、優勝はできなかった
7月、新監督グラディオラは、就任会見で「ロナウジーニョデコ、エトーは戦力外」と3人の名前を挙げたが、唯一チームに残留した。グラディオラはチームの「商業」を理解していなかったのか。もしも、残留は既定路線と承知のうえで、エトーを黙らせるために、戦力外発言をしたのならば、かなりの玉である
2009-10
インテル1年目。インテルはセリエA、コパイタリア、UEFACLの三冠を制した
6月、W杯2010出場 カメルーンは初戦で日本に敗れ、グループリーグで敗退した
2010-11
12月、CWC初出場 インテルが優勝して大会MVP獲得
2011-12
ロシアリーグのアンジ・マハチカラに移籍。フットボールの最高年俸選手となった

レアル・マドリーの下部組織で育ち、出場機会を求めてマジョルカへ移籍(マジョルカとレアル・マドリーの50:50共同保有)
2003-04オフ、アトレティコ・マドリーと移籍交渉がまとまっていたが、レアル・マドリーが反対。当時のマテオ・アレマニー、マジョルカ会長とバルセロナサイドの根気強い努力でバルセロナへの移籍が成立した
エトーはマジョルカ時代と、バルサでの2004-05優勝後にもレアル・マドリーを侮辱する暴言を吐き、品位を疑われた
デコはエトーの理解者としてのコメントを多く出している
「あいつは変わっているといわれるが、人間誰しも少しずつ違う。ちょっと気分屋なだけさ」



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