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最終更新 2006/6/16
2006年 W杯までの日本代表の軌跡。
- 2002年
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7月20日、ジーコ代表監督決定。日本サッカー協会技術委員長に田島幸三氏が就任。
7月22日、ジーコ監督正式契約
10月16日、国際Aマッチ第1戦 対ジャマイカ(1−1)。
- 2003年
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4月16日、日本 1対0 大韓民国 新体制後初勝利。
6月19日、コンフェデレーションズカップフランス大会。日本 3対0 ニュージーランド 公式戦初勝利。
8月20日、キリンチャレンジカップ2003。日本 3対0 ナイジェリア 国内初勝利。
- 2004年
- アジア地区1次予選開始 GROUP3【 日本、インド、オマーン、シンガポール 】
2月18日、初戦 1久保−0 オマーン(HOME)
3月31日 2高原直泰藤田−1 シンガポール away
外出禁止規則に違反してキャバクラに出かけた都築(浦和)山田暢(浦和)茂庭(F東京)奥(横浜M)山田卓(東京V)小笠原(鹿島)久保(横浜M)大久保嘉人(C大阪)の8人がメンバーから外された。
4月7日、日本サッカー協会はマスコミ各社に対して、紙面におけるキャバクラ組という表現の自粛を依頼する文書を送付した。
10月13日、オマーンを1−0で破り、アジア一次予選突破決定。
- 2005年
- アジア地区2次(最終)予選(8カ国中4+1が本戦出場)
2/ 9 ○北朝鮮(HOME)2−1 ロスタイム大黒の決勝点。
3/25 ●イラン away 1−2 4バックが失敗。
3/30 ○バーレーン home 1−0 サルミーンのオウンゴールで決勝点をもらう。
6/ 3 ○バーレーン away
6/ 8 ○北朝鮮(中立国・無観客) 開催国ドイツ以外では、世界で最も早く出場権獲得。
- 2006年
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5月15日、登録締切日に代表23人を発表。三浦知良、松井大輔は選出されなかった。
6月12日、オーストラリア戦1−3で敗れる。後日、FIFAジーグラー広報部長は 86分、ペナルティーエリア内でケーヒルが足をひっかけて駒野を転倒させた場面、PKをとらなかったのは「主審の明らかなミスだった」と述べた。
【 選手登録締切時 登録メンバー 23人 】
GK
土肥洋一
川口能活
楢崎正剛
DF
田中誠
宮本恒靖
加地亮
三都主
坪井慶介
中澤佑二
駒野友一
中田浩二
MF
福西崇史
小笠原満男
小野伸二
中田英寿
中村俊輔
稲本潤一
遠藤保仁
FW
玉田圭司
柳沢敦
高原直泰
大黒将志
巻誠一郎
ウェズレイ、トゥット(大宮 ブラジル国籍 1978年生まれ)らは母国で代表歴がなく、日本代表入りの資格を有していたが、召集されなかった。