【だいにほんえんかいよちぜんず】
江戸時代の終わり頃、伊能忠敬が作製した日本地図の最終版の名称
簡易には伊能図と呼ばれる
■地球の大きさを知るために測量の旅に出たことが、日本地図づくりにつながった
■大図・中図・小図がある
【 時系列の記録 】
- 1745年
- 伊能忠敬、上総の国、小関村(現在の千葉県九十九里町)で生まれる
- 1800年4月19日
- 伊能忠敬56歳の時、第一次測量の旅に出る
- 4月19日は「地図の日(最初の一歩の日)」
- 1804年
- 1月、伊能忠敬の師匠として指導してきた19歳年下の高橋至時が逝去
- 12月、幕府直轄事業として西日本の測量を命じられ5次以降は国家事業となる
- 日下公人「あと3年で、世界は江戸になる!」ビジネス社 2007年12月〜には、次のように記されている
(以下引用)
「当時の農民は土木や建築にも長じていて、伊能忠敬が測量に訪れたときは大歓迎して、率先して手伝ったから、日本地図ができあがったのである。(中略)それは、国民の多数が地図の価値を理解する知性があったからで、こうして日本では全国地図ができたが、他の国には近代に至るまで全国地図がなかったから、彼我の差は大きい。
(引用おわり)
- 1815年
- 第10次の測量を終え、すべての測量が終わる
- 1818年
- 伊能忠敬逝去。享年74歳
- 1821年
- 弟子の手により地図が完成。江戸城でお披露目される
- 1861年
- 英国測量艦隊に認められ、英国は小図を持ち帰る
- 1998年
- 1861年に測量艦隊が持ち帰り、その後グリニッジ海事博物館に保管されていた小図が江戸東京博物館で行われた「伊能忠敬展」に展示される
- 2001年
- 米国議会図書館で伊能大図207面がみつかる。(うち57面はそれ以前から日本国内にもあった)
その後、欠図7面を国会図書館の資料などで補充して全214面が揃う
- 2004年
- 12月6日〜23日、日本大学文理学部主催で60m×30mの大図の上を歩ける展示イベント「伊能図の世界あるくはかるつくる」が行われた
2004年12月撮影
トピックス
■九州の測量は第7次〜8次と終盤におこなったため、技術も熟練しており「九州の地図は芸術品」と言われる
■陸と島の距離は、島の1地点との方位角を陸の2地点から測って求めた
■正本は焼失したとされているが、何者かにより持ち出された可能性もあり、今後、出てくる可能性がある
参考文献
「伊能忠敬の地図を読む」渡辺一郎 河出書房新社 2000年2月
富岡八幡宮 伊能忠敬銅像
→顔出しボード