ジャイアント馬場
元プロレスラー 本名:馬場正平 巨人−大洋−プロレスラー 好物は大福と珈琲
■16文は38.4cm。馬場の足はそれほど大きくない。履いていた靴に16(inch、1inchは2.54cm)と表記されているのを見たスポーツ記者が「16文キック」と命名した
【略歴と時系列の記録】
- 1938年
- 1月23日、新潟県三条市生まれ
- 1955年
- 1月、16歳で巨人入団(投手)当時、NPB最年少入団だった
- 1960年
- 4月、自ら力道山の練習場を訪れて日本プロレス入り
- 1962年
- 米国で修行中に「16文キック」を開発
- 1963年
- 帰国。しばらくは米国と日本両方で試合をしていた。
- 12月、力道山が死亡。以後、同時期入門の猪木、大木と共にエース格に成長した
→BI砲
- 1972年
- 7月、日本プロレスに辞表を提出。
- 10月、全日本プロレス旗揚げ興業
- 1974年
- 12月2日、鹿児島県体育館 60分3本勝負 ジャック・ブリスコを破り(ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップからの体固め)NWA世界ヘビー級王座に就く<日本人初>
-
- 全日本プロレスに定期的に来日したミル・マスカラスとはシングルでは一度も対戦しなかった
- 1979年
- 8月26日、プロレスオールスター戦。猪木と組んでブッチャー、シン組と対戦。→プロレスの歴史
- 10月31日、愛知県体育館 60分1本勝負 ハリーレースを破り(ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップからの体固め)NWA世界ヘビー級王座に就く
- 1983年
- 11月29日、天竜源一郎を相手に最後の32文ロケット砲を飛ぶ。この試合で初めて日本人レスラーからフォール負けを喫する
- 1984年
- 4月25日、試合で首を負傷。デビュー以来の連続試合が3764で止まる
- 1985年
- 7月25日、スタン・ハンセンに敗れPWFヘビー級王座を失う。以後、シングルのタイトルマッチは行わずメインイベンターから退いた
- 1994年
- 7月、著書「16文の熱闘人生」東京新聞出版局 出版。巨人在籍当時からプロレス晩年まで詳しく振り返っている。
61分3本勝負はなぜ61分なのか?についても語っている。
- 1997年
- ニュース・ステーション「最後の晩餐」に出演
「最後の晩餐」集英社 1999年〜に番組で放送されなかった部分も含めて掲載されている
- 1998年
- ユージンガチャポン「全日本プロレス王道メインイベンターフィギュア」発売。シークレットでゴールドバージョンがある。
- 12月5日、最後の著書「俺の人生・プロレス・旅」発売
- 1999年
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1月31日、現役レスラーのまま61歳で逝去。プロレス5,759試合に出場(5,759戦は自らの追悼試合)
- 2月23日、週刊ゴング増刊「さよなら王道16文」発売
- 5月15日「ジャイアント馬場永久保存版写真集」市瀬英俊編集 ベースボールマガジン社 出版。
- ユージンガチャポン「全日本プロレスファンが選んだ人気レスラー+馬場さんビクトリーバージョン」発売。当初予定は全6種だったが、ミニチラシには感謝を込めて、緊急発売!と書かれている
- 2001年
- ガチャポンユージン「全日本プロレスリアルフィギュアコレクション3」発売。塗り行程が少なくのっぺりした印象になっている
- 2001年度
- 小学5年生の道徳の副読本(学校図書)に「やさしく強き巨人」の題名で登場
- 2005年
- 馬場元子監修の写真集「ジャイアント馬場 王道ミュージアム」発売
■ジャイアント馬場のガチャポンは、合計4種発売されている
世界平和を実現
Copyrightしらべる 今日の更新 初出2004年1月