ドラフト会議の歴史
ドラフト会議の出来事、ルール変更の詳しい歴史
- 1965年(昭和40年)
- 第1回ドラフト会議 巨人堀内恒夫が指名された
- 1978年
- 巨人がドラフト会議を欠席(特定球団の欠席はこの1度きり)
- 阪神が1位指名した江川卓は翌年、小林繁とのトレードで巨人入りした
- 1981年
- 進学表明していた工藤公康を西武がドラフト6位指名
- 1985年
- 早稲田大学進学を表明していた桑田真澄を巨人が1位指名。大卒後巨人入りを希望していた桑田は、4年後巨人に入れる保証はないため翻意して入団
- 1993年
- 逆指名(1球団2人まで)制度導入。一部選手に球団選択の自由が与えられた。
- FAも同年秋から導入された。
- 1994年
- 駒沢大学進学が決まっていた城島健司をダイエーホークスが1位指名
- 1995年
- ドラフト指名拒否を表明した選手は指名できないという内規ができた。ルール化は2004年
- 2001年
- 逆指名が自由獲得枠に替わる
- 2003年
- スポーツチャンネル「スカイ・A」が完全生中継した
- 2004年
- プロ志望届けを提出した者だけが指名対象となった。
- 近鉄とオリックスが合併したオリックス・バファローズ、新規参入の楽天イーグルスが初参加。
- 横浜に自由獲得枠で入団した那須野投手が規定の1億5千万円の3倍強、5億3千万円の契約金を受け取っていたことが2007年に発覚した
- 2005年
- 2004年の日本プロ野球再編に端を発したドラフト改革後、新制度の第一回。
- 高校生ドラフト10月、大学・社会人を11月に分離開催。
- 自由獲得枠が希望入団枠に名前が変わり、枠は二人から一人に減った
- 辻内崇伸(大阪桐蔭)を巨人、オリックスが入札。
オリックス中村GMがハズレクジをアタリと勘違いし、辻内崇伸は一旦オリックス指名会見をおこなった。
- 陽仲寿内野手(福岡第一高校)をソフトバンク、日本ハムが指名。王監督がハズレクジをアタリと勘違いした
- 2006年
- 前年、中村GMと王監督がハズレをアタリと勘違いしたことを受け、ハズレクジの「NPB印鑑」が裏面に押されるように変わる
- 2007年
- 2007年3月に発覚した西武のルール違反を契機に希望入団枠が廃止され、選手側に球団選択の自由がなくなる。これが2015年現在も続いている。
- 育成選手制度が始まったが、育成ドラフトはドラフト会議より後の12月開催だった
- 2008年
- 分離開催されていた高校生と大学生・社会人が一本化。日本シリーズ前の10月に開催されるようになった。従前は公式日程がすべて終了後に行われていた
- ドラフト会議終了後、育成ドラフトを開催。ドラフト会議において指名選手枠に満たない場合、残り枠を上限として育成ドラフトを開催する運用制度が始まる
- 2007年から有望選手の球団選択権を奪ったことで、有望選手が直接MLBを目指す第一例(田澤)が出た。するとNPBは、そのような選手を日本球界から締め出す、見せしめのルールをつくった。
- 詳しくは→2008年ドラフト会議
- 2009年
- 初めて会場が一般公開された。1,000人の招待募集に対して、1.5倍の応募者があった
- 2010年
- 各球団の指名選手提出方法が手書きからパソコン入力に変わった。
- 2012年
- MLB志望を表明していた大谷翔平(花巻東高校)を日本ハムが単独1位指名
- 2013年
- 同年のオールスターゲームが1勝1敗1分得失点差まで同点だったため、抽選でパリーグに2巡目指名優先権が与えられた
- 2015年
- 2巡目指名優先権が、従来のオールスターゲームから交流戦勝ち越しリーグに変更された
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