江川卓
【えがわ すぐる】驚くほどしなやかなフォームから終速が落ちない球を投げていた元NPB投手
作新学院−法政大学−巨人 右投げ右打ち
引退後は野球解説とスポーツ番組の司会をしている
- 1955年
- 5月25日、福島県生まれ
- 1973年
- ドラフト会議で阪急に1位指名されたが入団拒否、法政大学に進む。当時は選手が事前に希望球団を公言する風潮はなく、巨人志望であることは一般には知られていなかった
- 1977年
- ドラフト会議で、1位のくじを引いたクラウンに指名されたが入団拒否、アメリカで野球浪人に入る。志望球団巨人が引いたくじは2位で山倉捕手(早稲田大学)を指名した
- 1978年
- 11月、クラウンとの交渉期限が切れた翌日でドラフト会議前日(その後「空白の一日」と呼ばれている)に巨人と契約。NPBは契約を受理しなかった
ドラフト会議で阪神に指名される。巨人は欠席したために、2位で指名を予定していた落合博満を指名できなかった(落合は3位でロッテが指名)
- 1979年
-
1月31日、阪神と契約 背番号3
- 同日、小林繁との交換で巨人に入団。
- 5月末まで巨人の自粛で一軍に上がれなかった。
- 6月、解禁と共に一軍昇格、阪神戦で即初先発。ラインバックに逆転ホームランを打たれ負け投手。以後、外国人に打たれるという意味で「外人病」と呼ばれた。
- 1年めは9勝10敗。2ヶ月出ていなくても二桁は勝てると思っていたため、今後二桁勝てないようならば引退すると決めた
- 1980年
- 初めて開幕投手を務める。以後、西本聖と隔年で 1982、1984、1986年の開幕戦に投げた
- 1981年
- 20勝6敗 最多勝 最優秀防御率 最多奪三振
- 11連勝で20勝に到達した後に肉離れ。小林繁の22勝を目指していたが残り2試合は故障を抱えて投げ1分け1敗。
- 実力で取る投手部門のタイトルをすべて手にしたが、記者投票で決まる沢村賞だけは西本聖の手に渡った。
- 江川が投げる試合は進行が早く、20時を回ってすぐに終ることもあった。球場係員は早く帰れるので喜んだが、テレビ局は21時までの残り時間をつなぐのに苦労した。
- 3年めにして名実共に球界一の投手となったが、期待に反してこれがピークになってしまった
- 1984年7月24日
- オールスターゲームで9者連続三振を逃す。この頃、既に速球が走らなくなっていたがオールスターではなぜか速球が復活。10連続三振を狙い、9人めの打者近鉄大石に振り逃げを誘おうと投じた2-0からの外角カーブがストライクゾーンに入り、バットに当てられてセカンドゴロとなった。江川は著書「マウンドの心理学」で "記憶から消し去りたいカーブ" と表現している。
- 1985年
- 肩を痛めていたためスライダー(自らコシヒカリと命名)を投げ始める。11勝7敗
- 1986年
- 16勝6敗
- 1987年
- 13勝5敗 オフに現役引退。被本塁打253本。抜群に制球力が高く、現役通算与死球は23個だった。
- 2001年
- 8月「マウンドの心理学」ザ・マサダ 発表
- 2006年
- 巨人の指揮を執るかと思われたが、その役割は原辰徳に委ねられた。いつか、その野球理論が現場で通用するかを見てみたい
- 2007年
- 10月、黄桜のCMで小林繁と共演。プロ入り以来初めて、直に私的な話をした
→しらべるが行く「江川卓と小林繁」
- 2011年
- 11月、巨人原監督によって来期からの助監督に推されていたが、清武GMの暴露により実現しなかった
- 2015年
- シーズンオフ、原監督の後任候補として名前が挙がっている
世界平和を実現
Copyrightしらべる 今日の更新 初出2005年5月 最終更新 2015/10/11