落合博満
名選手であり名監督
東芝−ロッテ−中日−巨人−日本ハム−野球評論家−中日(監督)−
現役時代〜生涯打率.311、本塁打510、打点1,546
- 1953年
- 12月9日、秋田県生まれ
- 1978年
- 11月、ドラフト3位でロッテ入団。巨人は江川卓に次いで、2位で指名する予定だったが、その「江川問題」でドラフト会議を欠席したため指名できなかった
- 1980年
- 前半は怪我。後半57試合で.283、15本、32打点。土肥健二のフォームを取り入れた効果が出た
参考文献
「週刊ベースボール」ベースボール・マガジン社 1999年2月22日号
1981年
プロ入り3年めのシーズンで首位打者獲得。守備位置セカンド
1982年
初の三冠王、28歳での獲得は史上最年少
1983年
ファーストにコンバート、首位打者
1984年
山本功児の移籍入団でサードに回る。この年ブーマー(阪急)が三冠王獲得
1985年
三冠王 52本塁打(初の40本以上) MVP
1986年
4月、初の著書「なんと言われようとオレ流さ」講談社〜発表
2年連続三度めの三冠王
オフ 巨人移籍希望を セリーグ希望と表現していた落合を、ロッテ(有藤監督)は1−4トレードで中日に放出。有藤監督は「希望通りセリーグだから文句ないだろう」とコメントしていた。球界初の1億円プレーヤーとなる
1989年
スポーツ紙が発言を曲げて伝えたためキャンプ中は報道陣と筆談
1991年
本塁打王〜これが最後の打撃タイトルとなった
1993年
オフ、この年から導入されたFAで巨人移籍
1994年
移籍1年目でリーグ優勝に貢献。10.8の守備で負傷し日本シリーズはフル出場できず。
ボウリングはプロを目指していたほどの腕前。名古屋では家族でボウリング場のCMに出演していた。落合が自宅に電話して「ふっくん今から出ておいで」と長男を呼び出し、家族でボウリングを楽しむという設定だった
1996年
オフ、清原が西武からFAで移籍してくるのと入れ替わりに巨人を退団。日本ハムと契約
1998年
日本ハムには2年在籍後、現役引退
2001年
4月、著書「コーチング―言葉と信念の魔術」ダイヤモンド社
2003年
10月、中日監督就任。テレビ解説で日本シリーズは「すべてホームチームが勝ち4−3でダイエー」と予想を的中させる
2004年
6月、ナゴヤドームの巨人、ヤクルト、横浜戦の使用球をミズノ製からサンアップ製に替える。シーズン後堀内監督は「せこい」とコメントした
10月1日、巨人がマジック対象のヤクルトを破りリーグ優勝が決まる。コーチ経験のない監督の就任1年目優勝は史上初。(長嶋監督の初優勝は2年目)同年のパリーグ優勝西武の伊藤監督がこれにつづき2人めとなった
日本シリーズ敗退。第2戦勝利監督インタビューでの「(所沢で)3連勝するので、名古屋には戻ってこない」が今年唯一外れた予言となった
2005年
9月には逆転すると予言。福留は「監督にはそういうところがある」と暗示にかかっていたが、予言は外れた
2006年
リーグ優勝 日本シリーズで日本ハムに1勝4敗で敗退
オフシーズンに中日と新たな2年契約を結ぶ
2007年
リーグ優勝を最後まで巨人と争い2位。残り7試合でマジック7が点灯「だいじょうぶ全部勝つから」と公言したが、勝たなかった
2008年
巨人のリーグ2連覇が決まった日、メディアに対して巨人への賛辞はなく「敗者復活戦でがんばる」と述べた
2009年
WBC招集を中日の全選手が拒否。オールスターゲームでは原監督による岩瀬・和田の招集要請を拒否。
→嫌中日
2010年
リーグ優勝 日本シリーズではパリーグ3位のロッテに敗れた
2011年
シーズン終盤、球団が解任を発表。その後ヤクルトを逆転してリーグ二連覇。二連覇は球団史上初。内海哲也と最多勝を争う吉見をリードした試合の5回から登板させて勝ち星をつけた。
シーズンを通して試合後の談話は「大丈夫、動けているから」「動きは悪くない」と"動きコメント"の一点張りで通した。
11月、著書「采配」出版。ユニフォームを着ていた時には語らなかった意見を著す。組織の中であえぐサラリーマンにとって示唆に富んだ内容となっている。
参考文献
「コーチング」落合博満 ダイヤモンド社 2001年刊
世界平和を実現
Copyrightしらべる 今日の更新 最終更新 2012/7/1